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南くんの恋人 - 内田春菊

南くんの恋人 - 内田春菊


南くんの恋人』 

 

内田春菊という作者の作品はあまり好きではなかった。しかし、ある時期この作者の作品の中に『自分が今求めている、しかしなかなか見つけられない何か』へのヒントが隠されている様な気がしてこの作者の作品を貪り読んだことがある。

 

幸い(というかなんと言うかなんというか)その当時、内田春菊の作品は古本屋に行くとまるで『内田春菊コーナー』があるように山積みでおいてあった。何故そのような扱いを受けるのかわからなかったが、想像するにほとんどの作品のストーリーの起伏が非常に薄いように見え(魅力的な絵は別として)、どうでもよい様な日常的なことが(読者にとっては非日常ではあるが)延々と連なっているからではないかと思った。

1作読んだあとに次の作品を読むと、それはただ作品名とシチュエーションが若干変わったで、『作者が言いたいことはほとんど同じ』ということを読者が感じるからだろうか。

 

僕は内田春菊は2000年ぐらいまでのマンガ作品しか読んでいないが、もしかするとその後方向が変わったかもしれないが。しかし、2000年ごろまでは確かに同じように(少なくとも僕には)思えた。日常生活の中に薄っすらと毒が散りばめられていて、見るものは軽い窒息感を覚えるような、それは

 

『人間は本質的に自分のことしか考えていなくて、自分が幸せになるにはまず自立して、さらに相手のことを包み込むことで幸せが初めて帰ってくる』

 

というGive&Takeに支配された切実なメッセージだと僕には感じられた。
完全に健康な人はこの作者の作品を読んですぐに古本屋に持って行くのだろうか。

 

…しかし、そんな作品群の中にあってその内容がどうしても目を即けられないころまで高められた作品がある。何度かテレビドラマや映画にもになった『南くんの恋人』だ。この作品は安直にテレビドラマにする作品ではないように思えた。
何度もドラマ化されたりする背景には既存の作品を見たクリエイターが『既存作品でh納得ができない』からではないかとも勘ぐってしまった(作品の中に何度もリメイクするだけの普遍性があると考えるのが普通だが)。

 

本来の原作では『ちよみ』は風船につかまってどこか天国のようなビューティフルな場所に行くようなハッピーっぽいエンディングは決してやってこない(そんなドラマ化する必要性もないようなエンディングに作り直された作品があったように記憶している)。この作品は人間の心の深い深淵を一瞬ちらりと垣間見させてくれる。後味が悪いか悪くないかは別として。
僕は初めて読んだ後には、しばらく言葉が出なかった。落ち着かない気持ちを整理するためには熱いコーヒーを飲み、(真夜中だったが)風呂に入り、全身ストレッチをしなければならないくらいだった。そしてその後、寝巻きに着替え、ベッドに入り、少し泣いたような気がする(他の事で少しナーバスになっていたのかもしれない)。

 

その時僕は自分の中の何かをちらりと垣間見たのだろう

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